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2009年11月アーカイブ

縁あって、檀家のお宅でお昼をいただく。こうした席というのは、檀家と本音で語れるところがうれしい。

普段、お経だけの時にはなかなか話せないこと、いつもより、一歩踏み込んだ会話ができる。ただ、私がしゃべると言うよりも、ほとんどが質問攻めに合うか、一方的に話を聴くことが多くなってしまうのが正直なところだが、それでも必要とされていると思うとそれだけでもうれしい。

気軽に話せたり話しかけやすい人というのは、きっと必要とされ、それだけで得をしているんだなぁと思う。

別にキャラを作れとは言わないが、声をかけてもらえるようにする努力。「聴いてもらえるな」と安心して話をしてもらえる努力はできる。

きっとその積み重ね。じっくり時間をかけて、地に足をつけて、こつこつとやっていきたい。

延山大学公開講座「命について」のお話のお手伝いに、静岡まで出かける。今回のテーマは「認知症」について

ふと、昨日の夕飯何を食べたか思い出せないことが良くあるが、これはただのモノ忘れ。

食べたか食べていないかが思い出せない。確かに食べたのに本人は食べていないと思ってしまう。これが、認知症の症状だそうだ。

では、もし身の回りに、先ほど食事を済ませたばかりの方が「食事まだなんだけど」と言ったら何て返してあげたら良いのだろうか。

「さっき食べたでしょ」と、おそらくほとんどがこう返してしまうと思う。しかし、当人にしてみれば、食事はしていないのだから、傷つけるばかりか、喧嘩になってしまう。こうなると「この人は私を馬鹿にしている」さらには「この人は私を殺そうとしている」とエスカレートしていくことも少なくないそうだ。

もしも、自分が逆の立場だったらどうだろう。本当に食事をしていなくて、さてこれから食べようと思っているときに、「さっき食べたでしょ」と言われたら、嫌な思いが残る。「まだ食べてないよ」と返すが、何であんなこと言うんだろうと、相手を疑う。認知症の方とのやりとりというのは、常にこれの繰り返し。どれだけ大変かが伺える。

では実際に認知症の方が、食事を本当に済ませたばかりなのに「食事まだなんだけど」と言われた場合、どうすればいいのだろうか。

先生があげてくれた答えの一つに、こんな方法がある。

「それじゃ、お茶を先に出すから少し待っていてください」と言ってお茶とお菓子を出す。そして、それを召し上がっている間に、本人の興味のある、好きな話を話題にしていく。そうしていくうちに、今度は「食べていない」という要求を忘れてしまうのだという。

勘違いしないで欲しい。ここでは決してだましているんじゃない。言うとおりに食べ続けさせたら、お腹を壊してしまうばかりでなく、他の病気まで引き起こしてしまう。そうさせないために、方便を使って必要以上に食べさせないでいるのだ。

認知症。どれだけモノがあふれ、豊かな時代になっても、自然のしくみ・人間のつくりにはかなわないということを、教えていただいた。

泉寺の境内を、時間をかけてゆっくりと歩いてみる。竹の生え方。看板の位置。入り口の広さ。土地の有効活用がなされているか...等々チェックしながら、毎日何気なく通っている道を、第三者の目線で、ゆっくりと歩く。

今回様々なことに気づかせてもらった。

「この竹を切ったら富士山がきれいに見えるなぁ」

「ここの入り口がもう少し広ければ、ストレスを感じることなく檀家さんに車を入れてもられる」

「ここに椅子をおいたらゆっくり富士山を眺めてもらえるなぁ」

普段何気なく見ている風景も、意識を変え、角度を変えて見てみれば、様々な事を自分たちに教えてくれている。

お寺を「ああしよう。こうしよう」というアイデアは、とにかく悩まなければ出てこない。悩むことを恐れたり、恥らったり、めんどくさがっている者に、アイデアという答えは出てきてくれない。

悩んで悩んで、ようやく出てきたアイデアを大切に温めて、次回総代会議にかけて認可されれば、少しだが、また一歩、妙泉寺が明るくなっていく。

に1度、近隣のお坊さんが集まって、お経を読む「読誦会」を行っている。約4年前から、毎月約2時間。みっちりと行う。また今回は巡りめぐって妙泉寺が会場となる。

ただ一人で読む朝晩のお経と違い、読み癖に気づく良き機会でもあり、声の出し方、木証のペース・音の強弱などを再確認する機会にもなっている。

また、何よりこうして志を同じくして集まって読むことで、結束力・意識の向上。更にお経を読むことが、自然と習慣づくというのも大切な要素だと思っている。

こうして、参加した各寺院を開かれたお坊さんから、現在に至るまでお寺を守ってくださったお坊さんのご供養、そしてお檀家さん、ご先祖様をはじめ、それぞれが心に思いあたる、できる限りの魂の供養も同時に行う。

前にも少し触れたが、供養をするということは、決して自分のためにするんじゃない。お世話になった方、恩ある方へのせめてもの、気持ちばかりの「恩返し」なのだ。

そうして、いつか自分たちが旅立つ前に、一つでも多くの恩を返せていけたら、ご先祖様に少しでも喜んで頂いて旅立ちが出来たら...

そう願いながら手を合わす。これが、「合掌の心」なのです。

この主旨のもと、来月も読誦会を行う。

11月の唱題行を行った。ここのところ急に寒くなったせいか参加者は少なめだったが、当初からのテーマ「おしえを通して人を育てる」を胸にしまい、いつもと変わらず約1時間行う。

「人を育てない人は 一代かぎりと思え 人を信じない人は その場かぎりと思え」

自分が生きる上で大切にしている言葉のひとつ。

いい時もあれば悪いときもある。参加者が多いときもあれば少ないときもある。きっとその繰り返し。大事なことはどんな時でも、信じて前を見て進むこと。

辛いからとそこで止まってしまったら、その場限り。

来月は12月5日(土)夜7時からです。こつこつ続けていきますので、興味のある方、ぜひ足をお運びください。

 

しい日々に追われていると、自分のことばかりに意識がいって、してもらっていること、してあげられることへの意識が乏しくなってしまう。

荒行を成満した仲間が、久々にそろった。しかも会場は中間点にある静岡でということで私のところ。ちょうど一年前、名前もろくに知らないもの同志が、肩を寄せあって水をかぶり、眠気と空腹と寒さをしのぎ、耐えてきた。その中で自然と知り合い、助け合ってきた仲間。

あのとき助けてもらったこと、逆にさせて頂いたこと。恩返しの気持ちで接待させていただき、夜中まで話は尽きない・・・

日常の生活ではどうだろう。人からしてもらったこと、きちんと「恩返し」できているだろうか。

この世に生を受け、生きるということは、常に人に恩をつくるということ。そのいただいた恩に感謝をし、返していくということは、人生を良くしていくことだと思う。

葬儀をしない、法事をしない家庭が都心を中心に増えています。葬儀こそ、法事こそ、故人への最大級の恩返しです。

どんなに忙しくても、普段から恩返しをするくせ。自分のためにも、周りのためにも、忘れないで持っていたいものです。

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